ローストビーフ

母は店をやめたのに、年末(2018年)にローストビーフを焼いた。

長い間、毎年注文をくれたお客さまからの相談があり、牛肉が手配できればということで動いていたようだ。
長年のよしみもあり、牛肉は手配できた。それが11月。

12月の中旬近くに地味に周知した。いつものお客さまからの注文があって、あっという間に完売。

しかし、いつもと違うのは牛肉を切る、焼くなどの肝心なことは、まだ、できるけれど。
注文の管理や、発送、スケジュールの管理が、ほとんどできないことがわかった。

長女が、寄り添い、付き添って、なんとかすべてのご注文の発送を完了した。
母は、ローストビーフは、もう少しできるかね、と言っているそうだが。

「いや、もうできない」と周りの家族が実感した年末だった。

元旦の日に、母は、家で具合が悪く、高熱を出していた。
駆けつけた長女が、タクシーで病院へ。その夜は入院となった。
古いすきま風の入る家で、ひとりでいるよりかはずっと安心。
入院したと聞いて、へんな言い方になるけど、ホッとした。

約10日ほど入院して退院した。
帰ってきたときは、とても元気だった。

生きること

母は、やっと店をやめることにした。
ひとりでステーキ屋を営むには歳をとりすぎた。64歳で始めて83歳までよく続けたなって思う。

母の生活は、ある意味規則正しい。一般的なお勤めや学校へ通う人のような規則正しさとは違う。でも、毎泡、同じ時間に、それも早朝に起きて、その日の気になることをまずかたづける。そして、一般的な朝がやってくると外出する。数年前までは歩く運動をかねて区営のプールへ行っていた。
プールでまた、歩くのだ。毎日、毎日、行くうちに、プールで出会う人たちと親しくなって話をする。そこでのおしゃべりが楽しかったから続いたんだろう。
若いときから患っていた糖尿部も、一時は克服するくらいまで健康になっていた。

今は、歩く運動をかねて、2駅くらい先の駅まで歩く。そしてお気に入りのカフェに入る。
母は、いつもひとりででも出かける。基本は、いつもひとりだ。

やっていますか?って、、、はい。やっています。

母から、電話があった。
最近、お客さんが来ないんだよ、、、って。

来てくれる人は必ず電話かけてきて「やっていますか?」って言われる。
やっていますよって言うと「あああ、よかった」ってよろこんでくれるんだけどね。

ん?

気になったのでサイトを見ると、お知らせには臨時休業のお知らせが載ってる。
こっちのブログも、続けるために休むこと、、、で終わっている。

あ、なんか、総合的に、今は、やったりやらなかったりに見えてしまっているかもな?って思いました。

おかげさまで母は、とても元気で、毎日、毎日、店を開けています。
でも、たまに体調優先のときもありますので、遠方の方は念のため電話でのご予約をおすすめします。

先日、沖縄から友人が母の店の紹介番組を見たということで来てくれました。
久しぶりに店側でお客さん目線で店にいたのですが、いや元気だなと思いました。

家で話していると、年齢のせいか物忘れがあったり、よくわからないことを言ったりするのです。
ま、年齢的にしょうがないな、って思っているのですが。
お客さんが来てくれると、こんなに昔のままで店をしているんだと思いました。

ただ、少し、しゃべりすぎですよね。
いい肉なのかもしれませんが、ゆっくり味わってもらうために、静かな環境を!と思いました。

いらしてくださるお客様は、このおしゃべりにもつきあってくださっているんだなと。
母に言われば、みなさん聞いてくれてると、関心を持ってくれていると豪語しますが、、、ご迷惑でないことを祈ります。

食べればおいしいのはわかるから。
お店では味わってもらう環境づくりをしていただきたいと、思った、お客さん体験でした。

長く続けるために休むこと

あけましておめでとうございます。

新年早々、母はダウンしました。年末に、以前収録された番組が再放送されたらしく
年始早々、忙しかったようです。ただ、年末年始には、ふだん近くにいない孫も来ていたり
休みでほっとして年末の疲れが出たり、年始の休みは人が来たり、出かけたりが多いので、
よおどつかれたのでしょう。めずらしく体調を崩しました。
高熱が出ました。幸いインフルエンザではなかったようです。

それでも、母は店を開けようとします。一度、開けて、、、やっぱり無理だと閉めます。
高熱にうなされているときでも「1日寝て、なんとか次の日は開ける」ということを意識しています。
若いころ肉屋をしていたときは熱が少しあるくらいでは休んだことがありません。
そのころやり通したことが本人の基準になっていて、「知らずにお客さんがいらしてくれたら、、、」と
今でも、毎日、店を開けようとします。

毎朝、電話越しの声で「入院すれば?」と思うような段階から体調が回復してくる様子をみていて
近所にいる弟や妹、姪からの情報などを聞きながらも休むように言い続けました。

「ずっとなにもしていないなら、店で倒れて死んでも本望」と、よく口にしますが
ほんとうにそんなことになったら洒落にもならないと諭したり、、、ま、どう考えても開けられない状態でも
開けようとします。1日、1日、朝に電話で様子をチェックしながら説得が必要です。
いついつまでは休んだほうがいいということでは納得できないようです。

休んで5日目の今朝は、ほぼ元気なのもわかりますが、ずっと休んでいたので体力が足らない感じでした。
もう1日休んで、定休日2日を過ごせば、来週から時間短縮でも営業を始められると思いました。

「きょうは、開けないと」という母に、若い時とは違うから、そういう考え方は間違っていると言いました。
少しでも長く続けるというのは、こういうときに無理をせずにしっかりと休むことだと。

なにか思うことがあったのか、めずらしく素直に「そうだね。もう1日休む」と言いました。
この仕事を少しでも長く続けたいという想いが強いんだなぁと、改めて思いました。

ある意味、高齢な母が、ひとりで店を続けていられるのは、お客様へご迷惑をかけながらのことかも
しれませんね。いつも、母を支えてくださるお客さまたちの存在のありがたさと母の幸せを改めて思った
母の体調不良の日々でした。

雲行きが、、、^^

主の年齢が年齢なので長く続けられるようにと営業時間を変更しました。ところが、肝心の本人が、1日の使い方がわからないという悩みが始まりました。

「私は10歳のときから仕事をしてきた。身体が痛くても仕事をしていれば気持ちが納得する」

今回、休養がとれるようにとお昼の時間の営業を休むことにしたのですが、本人が休むことができないそうです。
というところに、土曜日の昼に、日曜日の午後にという予約が入り、、、きょう、明日は営業しているようです。

営業時間を切り戻すのも、時間の問題かもしれません。
下町ッ子を始める前に、母は、仕事をしない時期がありました。
40年以上仕事をし続けていて、仕事の無い時間が楽しかったのも半年くらい。
だんだんやることが無くなり、遊ぶことに飽きてきて、どうやら苦行あっての楽でないと嫌な性分のようです。
身体が動かないと言っても、その性分にあわないことはできない、、、ということなのでしょうか。

とにかく、きょう、明日は、昼間の営業があるそうです。

夜だけの営業になりました

母の店は、2017年11月1日から営業時間が変更になりました。
夜の営業(17時から21時)だけになります。定休日は従来通り、月曜日と火曜日です。

一人ですべてをやっているのですが、さすがに身体がきつくなっているようです。
あと2年で20年になるから、あt2年はやりたいと言っています。
だったら、営業時間を減らして、あと2年で終わりにしようという話になりました。

今、82歳ですからね。ああいう仕事をすること自体、奇跡だなと思います。
毎日、散歩に出て足腰が弱らないようにしているようです。
その流れで、日課のようにカフェで休憩をします。

それから店の開店準備にもどり、お昼の営業をするのが日課でした。
11月1日、2日は、お昼の営業が無いことが、とても具合が悪かったようです。
ライフスタイルが崩れてしまったように感じたようです。
また、少し時間の余裕ができたせいか、今までの疲れが出てきて、かえって疲れれると言っていました。
ならば、なおさら、もう仕事の時間を減らして、体を休めながらやっていこうという話をしました。

お昼の時間のほうが便利だったというお客様もいらっしゃるかもしれません。
事情をご理解いただいて、ぜひ、17時くらいの早い時間を予約して、引き続き、お出かっけいただければと思います。

昼の時間に、休んだり、遊んだりだけしようというのでは、実はありません。
このことは、またの機会に、お知らせしますね。

いつも、ありがとうございます。

BS朝日:後継者のいない名店〜あと何回、この料理を味わえるだろう〜

母は82歳です。戦後の混乱のなか小学生のときから家族のために働いていたと、よく話していますが、今も、ひとりで店をやっています。64歳で始めたステーキの店です。気に入った和牛、それもランプだけ、熟成したものだけと、こだわりすぎているのですが、このこだわりは母の人生の形のように見えてきました。

高齢の母がひとりできりもりしている店は、ありがたいことに、何度もテレビや雑誌の取材をしていただきました。番組によっては放映後、日本中、台湾や韓国からもお客様が見えてくださって、とても忙しい状態になりました。

とてもありがたいことなのですが、高齢な母ひとりで営業しているので「この忙しさは身体がもたない」と数年前から言うようになり、取材の依頼をお断りするようになりました。

今回は、しばらくお断りしていたテレビの取材を受けたそうです。熱心にご依頼いただいた担当差の方の熱意と、とくに「後継者のいない名店の味をアーカイブする」というテーマに心がうたれたようです。
あいにく、ぼくはテレビの無い生活を20年くらいしていてオンタイムでは見られません。w

「後継者のいない名店〜あと何回、この料理を味わえるだろう〜」
BS朝日 2017年8月28日(月)よる7:00〜8:54放送
http://www.bs-asahi.co.jp/meiten/


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母の食事

ぼくは肉屋の店の上が住居になっている家で生まれ育った。両親は朝から夜遅くまで仕事をしていた。起きると店では仕事をしていて。ふたりの仕事が終わらないうちに、ぼくは床についていた。そんな状況でも、食事は、必ずとっていた。母か、店のお姉さんがつくったものだったけれど、コンビニ弁当(ま、コンビニも無かった)だったり、菓子パンだったりということは無かった。

忙しい母の料理は、店にあるものを使うことが多く、一般のお家よりも肉が多い。肉が無いことは無かった。その後、小学校、中学校へ進み、周りの人の食生活がわかってくると特別なことだったことがわかる。だからか、運動をしなかったのに、ぼくは筋肉質な体格というか、よく「なにかスポーツされていますか?」と訊かれた。

母の食生活も似たりよったりで、子どものころの母のイメージは太ったおばさんだった。食べることが好きな人だったので糖尿病の問題がおこり、それからは、食療法をしたり、薬を飲んだりしていた。幸いそれ以上には進まなかった。母の食療法はいい加減で、都合のいい解釈で、肉も、白米も、甘いものも「少し」と言いながら、せっせと食べているような気がした。だから糖尿病は改善しなかった。

前にも書いたけれど、最近の母は歩くことが楽しみになっているらしく、それがよかったのか糖尿病の検査では通常の数値になってしまったらしい。それでも医学のスタンダードなのか糖尿病は治らないということで薬が出ている。母も、万が一のことがあるから定期的に通院している。薬はたまる一方だと言っていた。

糖尿病は遺伝するといわれるけれど、ぼくはずっと気にしないでいい範囲だった。最近は、健康診断の結果で血糖値や中世脂肪がボーダーを超えたりするので、いろいろと食事を気をつけていた。糖質を一切とらないとか、炭水化物をとらないとか、肉を食べずに魚を食べるとか、、、いわゆる、世の中で「よい」と言われていることを、いろいろ試した。体重が減ったりはするけれど、それほど減らず、肝心の検査の数値も変わらない。たまには上がってしまう。

そういう結果に落胆したりすると、よく思い出す本があった。3年ほど前に健康診断の待合室で読んた本だ。沖縄の内科医が書いた「日本人だからこそ「ご飯」を食べるな 肉・卵・チーズが健康長寿をつくる (講談社+α新書)」という本。読むと、それまで知っている常識とは全く逆のことが書いてあって、でも、掲載されている事例にはとても説得力があった。ひとつひとつ根拠が書かれている内容も、読んでみるともっともだなと思った。しかし、そのときに実践しようとは思わなかった。自分の思い込みまでになっている常識が邪魔していたんだと思う。

最近、また、新しい本「肉・卵・チーズで人は生まれ変わる」を読んだ。今回は、いろいろと試していたあとなので、やってみることにした。1週間もすると効果が出てきた。たまたま病院へ行く機会があり、始まり直前の数値と約1ヶ月後の数値をくらべられた。なんと減っている。ボーダーを下回るのにあと少し。しばらく続けることにした。

このMEC食、何を食べてはいけないということは無い。主食を「肉、卵、チーズ」に切りかえる。さらに、一口、30回以上噛む。これだけだ。炭水化物やほかのものも食べて構わない。でも「肉、卵、チーズ」から食べる。野菜からではなく「肉・卵、チーズ」から。1日、肉200g、卵3個、チーズ120gを食べれば、ほかに食べなくても大丈夫という。30回噛んで食べてると、お腹がすかなくなってきて、ほんとうにいろいろなものを食べなくなってきた。手を出さなくなってきている。がまんしているのではなくて、欲しくなくなっている。

あまりに簡単なので、母に「肉・卵・チーズで人は生まれ変わる」を送った。しばらくしたら電話があった。届いたと思ってから1週間以上たっていた。

母が言うには「なにか宣伝の郵便だと思って、よけていたんだけど、空けてみて読んでみたら、おもしろい。今まで、がんばってやっていたことの逆だし。もともとの食事に近いし。早速やってみたら、調子がいい」ということだった。1週間くらい経っている様子だった。いちばん感じたのは、もともと健康だった母だけれど、最近は声にはりが無くなってきていて、疲れやすいので、いつまで店ができるか、、、という話が多かった。この電話のときの母の声ははりがもどり、活力が伝わってくるような話し方に戻っている。肉屋のころは、健康を考えた肉屋と言っても、お医者さんに「肉はよくない」ということを言われると、「そうではない」という意見を探したり、「バランスの問題」と考えたり、ま、いろいろと苦労したことを思い出した。「あの時、この本があれば、どうどうともっと売れたね」と笑って話す母。今からでも売り出しそう。

日本人だからこそ「ご飯」を食べるな 肉・卵・チーズが健康長寿をつくる (講談社+α新書)

肉・卵・チーズで人は生まれ変わる

インターネットを使えない母

下町ッ子をインターネット上の情報で知ってくださった方が多い。
テレビでいらしている方のほうが数は多いと思うけれど、インターネット経由の方は、くりかえしご来店いただくようになった方が多いと思う。

そういう方々から「お母さんの店は、すごいね。ネットの評判がいいよね。前から、一度、来たかったんだ」と言われることがよくあるらしい。母は、そういうとき、「そうなんですか。ありがとうございます。私は、そういうのわからなくて見たことがないんですよ」と言うらしい。

あまりに多くて、どんなことが載っているのか印刷してほしいと頼まれたことがある。印刷してみると、けっこうなボリュームだった。書いてあることを、見てみると、それぞれ方が、思った通りのことを書いてくださっているのがわかる文章が多い。
ネットの情報も、肉声が集まると、なにか別の価値を生み出してくれているんだなと思ったことがある。

今でも、母は、インターネットを知らない。画面を通して見たことは無いんじゃないかな。
でも、今のWEBサイトは15年以上前につくったものなので、スマホやタブレットでも見てもらいやすいスタイルにリニューアルした。内容は、そのまま移し替えただけだけど、おいおい、なにか仕掛けてみたい。本人の発信ができないからな。笑
そこで、このブログを始めたというふうに言いたいけれど、実は、母と話していると残しておきたくなる話が多いので始めました。本人からは、もっと濃い熱い話が聞けます。


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自分の家族のためにやってることなのに

母は戦後を子供のころに経験した。
戦後の混乱の東京では幼い子供も生きるために差し迫ってくる問題が常にあったそうだ。

母は幼少のときに父(ぼくの祖父)を亡くし、ぼくの祖母が女でひとつで、母、母の兄、弟(歳の離れた姉が2人いたらしい)を和裁の仕事をしながら育てたという。しかし、どうしてもそれだけでは暮らしはなりたたないので、子どもながらに母はできることをしていたという。

小学校5年くらいのころ、コークスの細かなクズが捨てられているところがあったそうだ。コークスをダンプカーから落として、それを、別の車等へ移していた場所らしい。ちゃんとした大きさのものは無いけれど、細かなクズのようなものをかき集めて持ち帰る、それらをすべて洗って干しておくそうだ。そうすると、翌日には、ちゃんと燃料として使える。そのコークスを使った火で、お湯をわかし、料理をし、お米も炊いたと言っていた。さらには、長屋住まいだったので近所の人たちも順番に使って、みんなが生活の火を得ていたらしい。

ある日、学校から帰ると近所の人が「いつも、ありがとうね」と頭を下げられて困ったそうだ。家に帰って祖母にそのことを告げると「あ、お前が、毎日、コークスを持ってきて、みんなで火を使えるから助かってるんだろ」と言われた。母は、そんなことでお礼を言われてもと思ったそうだ。自分の家族のためにやっているし。それは、究極は自分のためだし。火がついているから、近所の人にも使ってもらってるだけなのに。と、まじめに思っていたらしい。

今の母を見ていても、人に分けることや、困っている人を黙って見ていられないとか、いろいろと驚くことがある。
ぼくたちが「そこまでしなくても、、、」的なことを言うと「私も、昔、困っていたから、、、黙っていられないんだよ」と涙を浮かべて訴えてくることが何度もあった。

そんなときに人の経験は、ほんとうにすごい力を産むんだなとよく思った。

母は肉屋の時代も、今のステーキの店も、または、それよりもっと前も、つねに自分の仕事に誇りをもっている。それも、並大抵の誇りではない。

たとえば今の仕事だったら、日本にも数少なくなってきている昔ながらの和牛のなかの和牛を、若い人に体験してもらいたい。無くなる前に日本人の若い人に食べてもらいたい。そういう一心で、だれでも払える価格にこだわる。

最初は、肉屋としての自信はあっても、飲食の自信が無いから安く売ってるんだろうと思っていた。しかし、64際から15年以上、たったひとりで、生産者直営の肉屋さんに相談しながら、野菜はどこだ、米はだれだ、たまごはどこだ、、、水は、、、と、まぁ、現代人からしたら、そこまでこだわらんでもいいでしょ、と思うようなことを生命がけでやっている。

彼女は、価格を高くするのは人件費だと思っている。ひとりでがんばれば、価格は抑えられると思っているよう。たしかに一面正しいけれど、、、それでは続かないよと思っていた。「いつまでできるかわからない」と言いながら、方針も内容も変えずに15年以上続けているというのは思いの真剣度をバカな息子でも感じざるをえない。脱帽。

子どものころの、たいへんな経験のなかで母の意地っ張りは育てられ、磨きがかけられたんだろうなと思う。こんなエピソードも、ひとつやふたつではない。機会があればここに書こうと思っているけれど、ほんとにどんだけその時代がたいへんなだったのか、母がへんな子どもだったのか。w