母に選ばれたPucnaHiconaの英世さん。

母の店を引き継いでくれた福岡さんのPucnaHicona。味もサービスも母の下町ッ子を超えてるのではないかな。

こういうのご時世だからと、毎日、隅々、完璧な清掃と消毒。そして、最後の最後には床を丹念に清掃と消毒。

始めたばかりでこういう自粛な状態になってきた時、「お客さまに感染したらいけない」と、東京都の要請よりも前から臨時休業した春。すごい人だなと思った。

今も細心の注意を払い、テーブル1組、カウンター1組。ご家族のご予約が入ると、その1組で貸し切りにしてるらしい。それに気づいたお父さんが、最後の最後にワインをテイクアウトしてくれたこともあったとか。

この間、久しぶりにゆっくりと話したけど、全く心は折れず、この状況でも来店される方の安全と満足を追求する姿勢が、さらにパワーアップしてます!

お祝いのお食事、他所では食べたことない牛肉、お料理やサービスに隠された福岡さんのPucnaマジック。せひ、ご体験ください。

そうそう、母が下町ッ子を閉める時、「跡を継げる人はいない」「高齢でもう教えられない」「習って覚えることではない」と、お客さまに話していたらしい。テレビでも言ってたらしい。

確かに、あの人の仕事を継ぐのは息子でも無理だからと思っていた。近い仕事をしてる弟も、近い業界だけれど、全く違うことをしている。w

だからか、PucnaHiconaへいらした下町ッ子のお客さまは食べ終わるまで黙って召し上がり、帰るころに「お母さん、元気ですか?」「どういうご関係なの?」とよく尋問されるらしい。みなさま、福岡さんのPucnaHiconaも気に入ってくださったようでリピーターになってくださっている。それを聞いて、ほっとした。^^;

息子たちも継がなかった母の志を引き継いでくれたのに、なんとも気の毒な話だなと思った。正真正銘の、閉店してから母が「あの人ならやってほしい。教えられることは全部教えるよ」と言って、ほとんどゼロからPucnaHiconaを始めた福岡さんです。

PucnaHiconaと福岡さん、正真正銘の母の下町ッ子の後継者です。よろしくお願いします。^^

PucnaHiconaの感染対策

「やっぱりおいしい牛肉が食べたい」と思った。

ぼくは肉屋に生まれて育ちました。
街の小さな肉屋だったと思うんですが、父は戦後の日本人の食について、よく語っていました。栄養も大事だけれど、味も大事だと。
そんなことはあたりまえなのに、いろいろな研究者や食のプロの人に話に行っては、今でいううざがられる。ま、みなさんには迷惑がられたと思います。w

そんな家で育ったので、おいしいものを食べて育ちました。
だから、大人になったときにおいしいものは好きだけれど、なにがなんでもおいしいものが食べたいという欲望がありません。ぐるめブームも、いろいろありましたが周りが騒いでいてもなにも思いません。誘われれば出かけていったりしました。騒ぐほどおいしいものに出逢ったことは、ほとんどありません。

日本のおいしい和牛。
とくに伝統的な飼育法で育てられた血統のいい牛肉はとてもおいしいです。
いつもこれを食べたいということではなくて、このおいしい牛肉が食べられる国でいてほしいと、思うようになりました。

個人的に好きなのは但馬の周助つるの流れをくむ血統でじっくりとゆっくり肥育されたストレスのない牛肉です。これを、家の秘伝(でもないですがw)の熟成をほどこしてステーキにして食べると、ほんとにおいしいな、って思います。

ここ1年くらい、食べていませんでした。今までも、いつも食べていたわけではないですが年に数回、実家へ帰ると食べていました。40年ちょっと和牛の職人をしていた母が自分がいちばん好きな牛の、とくに好きな部位だけを扱ったステーキの店を肉屋をやめて数年後、64歳から19年間、ひとりでやっていました。その店が閉店したのが、1年前です。

母が店をやめたのが10月。
すぐに、お客さまから、また、あのステーキが食べたいです。とか、だれもやってくれないなら、自分がするから教えてほしいとか、、、いろいろな話が出てきました。

母にとってはうれしいことこの上ないという感じだったと思います。
でも、母は「いやだれでもできるものでもないし。私が、だれにでも教えられない。」ときっぱり。

その時、おいしい牛肉が食べたいなって思う自分がいました。
食には興味なく、欲望もないと思っていた自分が、あの牛肉をまた食べたいなって思ったのです。


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「下町ッ子」を残すことは名前を残すことではない。

母の店は、銘柄牛を売りたいというよりも、日本で何百年も守られてきた和牛飼育の伝統があるから味わえる味を輸入ビーフで育った世代の人たちに知ってもらいたいということで始まった。今は、和牛のおいしさを標榜するお店が増えてきたし。黒毛和牛という言い方や、イチボ、ランプ、ヒレ、などの部位を示して売る人も増えてきた。牛肉なら同じだと思われていたころを思うと感慨深い。

残念なこともある。
和牛の需要が増えてきて、さらに外国人にまで広まってきているのに飼育する人のたちの後継者が少なくなってきていること。
もうひとつがブームに乗って、銘柄牛を名乗りながらも伝統的な飼育で肥育された和牛ではないものも増えていること。

どちらも、ぼくたちに解決できるテーマではないけれど、知らぬ間に引き継いでいることも含めて、母が伝えたかった和牛の食文化というか、和牛と人の暮らしを感じられるような、ひとつの形として和牛のレストランをしていくことはできる。

銘柄や価格に惑わされずに、嘘のない和牛を食べて、自分の舌でハートで感じた味を、おいしいと感じてくれる人のために、母が守ってきた矜持に恥じない和牛ステーキを提供すること、、、これだけが、いつになっても母から引き継いだと言えることだ。

ぼくたちのステーキを食べた人に、「あ、そういえば昔、こんなおいしいステーキを食べたな。おばさんがひとりでやってるお店だった」とか思い出してくれることがあったらうれしい。

「あの人にならやってもらいたい」のひとことから

母は、今は、ひとり暮らしがとてもむずかしい状態になって、ご縁のある施設で暮らしている。
ここに至るまでのすったもんだもあったけれど、ひとり暮らしのときと違って、規則正しい食事、持病のために必要な食制限も守られて、薬の飲み忘れもなく数ヶ月たって、以前のように元気になってきた。

多少の痴呆が出ていいる。この物忘れ以外は、施設でも食事の支度を手伝ったりしている。
料理を作ることは、とても生きがいのようで、おかげさまで以前の元気さをとりもどしてきた。

店を閉めてから「店を引き継ぎたい」という方から、お声をかけていただいていた。母は直感と身体で覚えた技術が多く、人に教える、ましてや全くの素人の人に教える術もない。また、体力的にむずかしいのですべてお断りしていた。

その話を聞いたFさんの「そんな何も肉を知らない人ができるっていうのなら、自分がやりたい」という一言を母が聞いて、

「あの人になら教えられるよ。やってもらいたいな」と満面の笑みで言ったのがきっかけで、できるかできないかよりも、その実現をしたい気持ちが先に働いて「やろう!」ということになった。Fさんは、ずっと、人知れず母をサポートしてきてくれた方で、母の信頼が厚い。

母をアドバイザーにして、ハム職人の弟も加わって、下町ッ子再生プロジェクトが始動した。ここで、今までのことや、これからの状況を、伝えていこうと思う。

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ステーキ茶屋 下町ッ子(ステーキ茶屋 下町ッ子)


■すっかり元気になった母。孫娘との小旅行。