母の食事

ぼくは肉屋の店の上が住居になっている家で生まれ育った。両親は朝から夜遅くまで仕事をしていた。起きると店では仕事をしていて。ふたりの仕事が終わらないうちに、ぼくは床についていた。そんな状況でも、食事は、必ずとっていた。母か、店のお姉さんがつくったものだったけれど、コンビニ弁当(ま、コンビニも無かった)だったり、菓子パンだったりということは無かった。

忙しい母の料理は、店にあるものを使うことが多く、一般のお家よりも肉が多い。肉が無いことは無かった。その後、小学校、中学校へ進み、周りの人の食生活がわかってくると特別なことだったことがわかる。だからか、運動をしなかったのに、ぼくは筋肉質な体格というか、よく「なにかスポーツされていますか?」と訊かれた。

母の食生活も似たりよったりで、子どものころの母のイメージは太ったおばさんだった。食べることが好きな人だったので糖尿病の問題がおこり、それからは、食療法をしたり、薬を飲んだりしていた。幸いそれ以上には進まなかった。母の食療法はいい加減で、都合のいい解釈で、肉も、白米も、甘いものも「少し」と言いながら、せっせと食べているような気がした。だから糖尿病は改善しなかった。

前にも書いたけれど、最近の母は歩くことが楽しみになっているらしく、それがよかったのか糖尿病の検査では通常の数値になってしまったらしい。それでも医学のスタンダードなのか糖尿病は治らないということで薬が出ている。母も、万が一のことがあるから定期的に通院している。薬はたまる一方だと言っていた。

糖尿病は遺伝するといわれるけれど、ぼくはずっと気にしないでいい範囲だった。最近は、健康診断の結果で血糖値や中世脂肪がボーダーを超えたりするので、いろいろと食事を気をつけていた。糖質を一切とらないとか、炭水化物をとらないとか、肉を食べずに魚を食べるとか、、、いわゆる、世の中で「よい」と言われていることを、いろいろ試した。体重が減ったりはするけれど、それほど減らず、肝心の検査の数値も変わらない。たまには上がってしまう。

そういう結果に落胆したりすると、よく思い出す本があった。3年ほど前に健康診断の待合室で読んた本だ。沖縄の内科医が書いた「日本人だからこそ「ご飯」を食べるな 肉・卵・チーズが健康長寿をつくる (講談社+α新書)」という本。読むと、それまで知っている常識とは全く逆のことが書いてあって、でも、掲載されている事例にはとても説得力があった。ひとつひとつ根拠が書かれている内容も、読んでみるともっともだなと思った。しかし、そのときに実践しようとは思わなかった。自分の思い込みまでになっている常識が邪魔していたんだと思う。

最近、また、新しい本「肉・卵・チーズで人は生まれ変わる」を読んだ。今回は、いろいろと試していたあとなので、やってみることにした。1週間もすると効果が出てきた。たまたま病院へ行く機会があり、始まり直前の数値と約1ヶ月後の数値をくらべられた。なんと減っている。ボーダーを下回るのにあと少し。しばらく続けることにした。

このMEC食、何を食べてはいけないということは無い。主食を「肉、卵、チーズ」に切りかえる。さらに、一口、30回以上噛む。これだけだ。炭水化物やほかのものも食べて構わない。でも「肉、卵、チーズ」から食べる。野菜からではなく「肉・卵、チーズ」から。1日、肉200g、卵3個、チーズ120gを食べれば、ほかに食べなくても大丈夫という。30回噛んで食べてると、お腹がすかなくなってきて、ほんとうにいろいろなものを食べなくなってきた。手を出さなくなってきている。がまんしているのではなくて、欲しくなくなっている。

あまりに簡単なので、母に「肉・卵・チーズで人は生まれ変わる」を送った。しばらくしたら電話があった。届いたと思ってから1週間以上たっていた。

母が言うには「なにか宣伝の郵便だと思って、よけていたんだけど、空けてみて読んでみたら、おもしろい。今まで、がんばってやっていたことの逆だし。もともとの食事に近いし。早速やってみたら、調子がいい」ということだった。1週間くらい経っている様子だった。いちばん感じたのは、もともと健康だった母だけれど、最近は声にはりが無くなってきていて、疲れやすいので、いつまで店ができるか、、、という話が多かった。この電話のときの母の声ははりがもどり、活力が伝わってくるような話し方に戻っている。肉屋のころは、健康を考えた肉屋と言っても、お医者さんに「肉はよくない」ということを言われると、「そうではない」という意見を探したり、「バランスの問題」と考えたり、ま、いろいろと苦労したことを思い出した。「あの時、この本があれば、どうどうともっと売れたね」と笑って話す母。今からでも売り出しそう。

日本人だからこそ「ご飯」を食べるな 肉・卵・チーズが健康長寿をつくる (講談社+α新書)

肉・卵・チーズで人は生まれ変わる

自分の家族のためにやってることなのに

母は戦後を子供のころに経験した。
戦後の混乱の東京では幼い子供も生きるために差し迫ってくる問題が常にあったそうだ。

母は幼少のときに父(ぼくの祖父)を亡くし、ぼくの祖母が女でひとつで、母、母の兄、弟(歳の離れた姉が2人いたらしい)を和裁の仕事をしながら育てたという。しかし、どうしてもそれだけでは暮らしはなりたたないので、子どもながらに母はできることをしていたという。

小学校5年くらいのころ、コークスの細かなクズが捨てられているところがあったそうだ。コークスをダンプカーから落として、それを、別の車等へ移していた場所らしい。ちゃんとした大きさのものは無いけれど、細かなクズのようなものをかき集めて持ち帰る、それらをすべて洗って干しておくそうだ。そうすると、翌日には、ちゃんと燃料として使える。そのコークスを使った火で、お湯をわかし、料理をし、お米も炊いたと言っていた。さらには、長屋住まいだったので近所の人たちも順番に使って、みんなが生活の火を得ていたらしい。

ある日、学校から帰ると近所の人が「いつも、ありがとうね」と頭を下げられて困ったそうだ。家に帰って祖母にそのことを告げると「あ、お前が、毎日、コークスを持ってきて、みんなで火を使えるから助かってるんだろ」と言われた。母は、そんなことでお礼を言われてもと思ったそうだ。自分の家族のためにやっているし。それは、究極は自分のためだし。火がついているから、近所の人にも使ってもらってるだけなのに。と、まじめに思っていたらしい。

今の母を見ていても、人に分けることや、困っている人を黙って見ていられないとか、いろいろと驚くことがある。
ぼくたちが「そこまでしなくても、、、」的なことを言うと「私も、昔、困っていたから、、、黙っていられないんだよ」と涙を浮かべて訴えてくることが何度もあった。

そんなときに人の経験は、ほんとうにすごい力を産むんだなとよく思った。

母は肉屋の時代も、今のステーキの店も、または、それよりもっと前も、つねに自分の仕事に誇りをもっている。それも、並大抵の誇りではない。

たとえば今の仕事だったら、日本にも数少なくなってきている昔ながらの和牛のなかの和牛を、若い人に体験してもらいたい。無くなる前に日本人の若い人に食べてもらいたい。そういう一心で、だれでも払える価格にこだわる。

最初は、肉屋としての自信はあっても、飲食の自信が無いから安く売ってるんだろうと思っていた。しかし、64際から15年以上、たったひとりで、生産者直営の肉屋さんに相談しながら、野菜はどこだ、米はだれだ、たまごはどこだ、、、水は、、、と、まぁ、現代人からしたら、そこまでこだわらんでもいいでしょ、と思うようなことを生命がけでやっている。

彼女は、価格を高くするのは人件費だと思っている。ひとりでがんばれば、価格は抑えられると思っているよう。たしかに一面正しいけれど、、、それでは続かないよと思っていた。「いつまでできるかわからない」と言いながら、方針も内容も変えずに15年以上続けているというのは思いの真剣度をバカな息子でも感じざるをえない。脱帽。

子どものころの、たいへんな経験のなかで母の意地っ張りは育てられ、磨きがかけられたんだろうなと思う。こんなエピソードも、ひとつやふたつではない。機会があればここに書こうと思っているけれど、ほんとにどんだけその時代がたいへんなだったのか、母がへんな子どもだったのか。w