母は戦後を子供のころに経験した。
戦後の混乱の東京では幼い子供も生きるために差し迫ってくる問題が常にあったそうだ。

母は幼少のときに父(ぼくの祖父)を亡くし、ぼくの祖母が女でひとつで、母、母の兄、弟(歳の離れた姉が2人いたらしい)を和裁の仕事をしながら育てたという。しかし、どうしてもそれだけでは暮らしはなりたたないので、子どもながらに母はできることをしていたという。

小学校5年くらいのころ、コークスの細かなクズが捨てられているところがあったそうだ。コークスをダンプカーから落として、それを、別の車等へ移していた場所らしい。ちゃんとした大きさのものは無いけれど、細かなクズのようなものをかき集めて持ち帰る、それらをすべて洗って干しておくそうだ。そうすると、翌日には、ちゃんと燃料として使える。そのコークスを使った火で、お湯をわかし、料理をし、お米も炊いたと言っていた。さらには、長屋住まいだったので近所の人たちも順番に使って、みんなが生活の火を得ていたらしい。

ある日、学校から帰ると近所の人が「いつも、ありがとうね」と頭を下げられて困ったそうだ。家に帰って祖母にそのことを告げると「あ、お前が、毎日、コークスを持ってきて、みんなで火を使えるから助かってるんだろ」と言われた。母は、そんなことでお礼を言われてもと思ったそうだ。自分の家族のためにやっているし。それは、究極は自分のためだし。火がついているから、近所の人にも使ってもらってるだけなのに。と、まじめに思っていたらしい。

今の母を見ていても、人に分けることや、困っている人を黙って見ていられないとか、いろいろと驚くことがある。
ぼくたちが「そこまでしなくても、、、」的なことを言うと「私も、昔、困っていたから、、、黙っていられないんだよ」と涙を浮かべて訴えてくることが何度もあった。

そんなときに人の経験は、ほんとうにすごい力を産むんだなとよく思った。

母は肉屋の時代も、今のステーキの店も、または、それよりもっと前も、つねに自分の仕事に誇りをもっている。それも、並大抵の誇りではない。

たとえば今の仕事だったら、日本にも数少なくなってきている昔ながらの和牛のなかの和牛を、若い人に体験してもらいたい。無くなる前に日本人の若い人に食べてもらいたい。そういう一心で、だれでも払える価格にこだわる。

最初は、肉屋としての自信はあっても、飲食の自信が無いから安く売ってるんだろうと思っていた。しかし、64際から15年以上、たったひとりで、生産者直営の肉屋さんに相談しながら、野菜はどこだ、米はだれだ、たまごはどこだ、、、水は、、、と、まぁ、現代人からしたら、そこまでこだわらんでもいいでしょ、と思うようなことを生命がけでやっている。

彼女は、価格を高くするのは人件費だと思っている。ひとりでがんばれば、価格は抑えられると思っているよう。たしかに一面正しいけれど、、、それでは続かないよと思っていた。「いつまでできるかわからない」と言いながら、方針も内容も変えずに15年以上続けているというのは思いの真剣度をバカな息子でも感じざるをえない。脱帽。

子どものころの、たいへんな経験のなかで母の意地っ張りは育てられ、磨きがかけられたんだろうなと思う。こんなエピソードも、ひとつやふたつではない。機会があればここに書こうと思っているけれど、ほんとにどんだけその時代がたいへんなだったのか、母がへんな子どもだったのか。w