BS朝日:後継者のいない名店〜あと何回、この料理を味わえるだろう〜

母は82歳です。戦後の混乱のなか小学生のときから家族のために働いていたと、よく話していますが、今も、ひとりで店をやっています。64歳で始めたステーキの店です。気に入った和牛、それもランプだけ、熟成したものだけと、こだわりすぎているのですが、このこだわりは母の人生の形のように見えてきました。

高齢の母がひとりできりもりしている店は、ありがたいことに、何度もテレビや雑誌の取材をしていただきました。番組によっては放映後、日本中、台湾や韓国からもお客様が見えてくださって、とても忙しい状態になりました。

とてもありがたいことなのですが、高齢な母ひとりで営業しているので「この忙しさは身体がもたない」と数年前から言うようになり、取材の依頼をお断りするようになりました。

今回は、しばらくお断りしていたテレビの取材を受けたそうです。熱心にご依頼いただいた担当差の方の熱意と、とくに「後継者のいない名店の味をアーカイブする」というテーマに心がうたれたようです。
あいにく、ぼくはテレビの無い生活を20年くらいしていてオンタイムでは見られません。w

「後継者のいない名店〜あと何回、この料理を味わえるだろう〜」
BS朝日 2017年8月28日(月)よる7:00〜8:54放送
http://www.bs-asahi.co.jp/meiten/


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母の食事

ぼくは肉屋の店の上が住居になっている家で生まれ育った。両親は朝から夜遅くまで仕事をしていた。起きると店では仕事をしていて。ふたりの仕事が終わらないうちに、ぼくは床についていた。そんな状況でも、食事は、必ずとっていた。母か、店のお姉さんがつくったものだったけれど、コンビニ弁当(ま、コンビニも無かった)だったり、菓子パンだったりということは無かった。

忙しい母の料理は、店にあるものを使うことが多く、一般のお家よりも肉が多い。肉が無いことは無かった。その後、小学校、中学校へ進み、周りの人の食生活がわかってくると特別なことだったことがわかる。だからか、運動をしなかったのに、ぼくは筋肉質な体格というか、よく「なにかスポーツされていますか?」と訊かれた。

母の食生活も似たりよったりで、子どものころの母のイメージは太ったおばさんだった。食べることが好きな人だったので糖尿病の問題がおこり、それからは、食療法をしたり、薬を飲んだりしていた。幸いそれ以上には進まなかった。母の食療法はいい加減で、都合のいい解釈で、肉も、白米も、甘いものも「少し」と言いながら、せっせと食べているような気がした。だから糖尿病は改善しなかった。

前にも書いたけれど、最近の母は歩くことが楽しみになっているらしく、それがよかったのか糖尿病の検査では通常の数値になってしまったらしい。それでも医学のスタンダードなのか糖尿病は治らないということで薬が出ている。母も、万が一のことがあるから定期的に通院している。薬はたまる一方だと言っていた。

糖尿病は遺伝するといわれるけれど、ぼくはずっと気にしないでいい範囲だった。最近は、健康診断の結果で血糖値や中世脂肪がボーダーを超えたりするので、いろいろと食事を気をつけていた。糖質を一切とらないとか、炭水化物をとらないとか、肉を食べずに魚を食べるとか、、、いわゆる、世の中で「よい」と言われていることを、いろいろ試した。体重が減ったりはするけれど、それほど減らず、肝心の検査の数値も変わらない。たまには上がってしまう。

そういう結果に落胆したりすると、よく思い出す本があった。3年ほど前に健康診断の待合室で読んた本だ。沖縄の内科医が書いた「日本人だからこそ「ご飯」を食べるな 肉・卵・チーズが健康長寿をつくる (講談社+α新書)」という本。読むと、それまで知っている常識とは全く逆のことが書いてあって、でも、掲載されている事例にはとても説得力があった。ひとつひとつ根拠が書かれている内容も、読んでみるともっともだなと思った。しかし、そのときに実践しようとは思わなかった。自分の思い込みまでになっている常識が邪魔していたんだと思う。

最近、また、新しい本「肉・卵・チーズで人は生まれ変わる」を読んだ。今回は、いろいろと試していたあとなので、やってみることにした。1週間もすると効果が出てきた。たまたま病院へ行く機会があり、始まり直前の数値と約1ヶ月後の数値をくらべられた。なんと減っている。ボーダーを下回るのにあと少し。しばらく続けることにした。

このMEC食、何を食べてはいけないということは無い。主食を「肉、卵、チーズ」に切りかえる。さらに、一口、30回以上噛む。これだけだ。炭水化物やほかのものも食べて構わない。でも「肉、卵、チーズ」から食べる。野菜からではなく「肉・卵、チーズ」から。1日、肉200g、卵3個、チーズ120gを食べれば、ほかに食べなくても大丈夫という。30回噛んで食べてると、お腹がすかなくなってきて、ほんとうにいろいろなものを食べなくなってきた。手を出さなくなってきている。がまんしているのではなくて、欲しくなくなっている。

あまりに簡単なので、母に「肉・卵・チーズで人は生まれ変わる」を送った。しばらくしたら電話があった。届いたと思ってから1週間以上たっていた。

母が言うには「なにか宣伝の郵便だと思って、よけていたんだけど、空けてみて読んでみたら、おもしろい。今まで、がんばってやっていたことの逆だし。もともとの食事に近いし。早速やってみたら、調子がいい」ということだった。1週間くらい経っている様子だった。いちばん感じたのは、もともと健康だった母だけれど、最近は声にはりが無くなってきていて、疲れやすいので、いつまで店ができるか、、、という話が多かった。この電話のときの母の声ははりがもどり、活力が伝わってくるような話し方に戻っている。肉屋のころは、健康を考えた肉屋と言っても、お医者さんに「肉はよくない」ということを言われると、「そうではない」という意見を探したり、「バランスの問題」と考えたり、ま、いろいろと苦労したことを思い出した。「あの時、この本があれば、どうどうともっと売れたね」と笑って話す母。今からでも売り出しそう。

日本人だからこそ「ご飯」を食べるな 肉・卵・チーズが健康長寿をつくる (講談社+α新書)

肉・卵・チーズで人は生まれ変わる

インターネットを使えない母

下町ッ子をインターネット上の情報で知ってくださった方が多い。
テレビでいらしている方のほうが数は多いと思うけれど、インターネット経由の方は、くりかえしご来店いただくようになった方が多いと思う。

そういう方々から「お母さんの店は、すごいね。ネットの評判がいいよね。前から、一度、来たかったんだ」と言われることがよくあるらしい。母は、そういうとき、「そうなんですか。ありがとうございます。私は、そういうのわからなくて見たことがないんですよ」と言うらしい。

あまりに多くて、どんなことが載っているのか印刷してほしいと頼まれたことがある。印刷してみると、けっこうなボリュームだった。書いてあることを、見てみると、それぞれ方が、思った通りのことを書いてくださっているのがわかる文章が多い。
ネットの情報も、肉声が集まると、なにか別の価値を生み出してくれているんだなと思ったことがある。

今でも、母は、インターネットを知らない。画面を通して見たことは無いんじゃないかな。
でも、今のWEBサイトは15年以上前につくったものなので、スマホやタブレットでも見てもらいやすいスタイルにリニューアルした。内容は、そのまま移し替えただけだけど、おいおい、なにか仕掛けてみたい。本人の発信ができないからな。笑
そこで、このブログを始めたというふうに言いたいけれど、実は、母と話していると残しておきたくなる話が多いので始めました。本人からは、もっと濃い熱い話が聞けます。


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自分の家族のためにやってることなのに

母は戦後を子供のころに経験した。
戦後の混乱の東京では幼い子供も生きるために差し迫ってくる問題が常にあったそうだ。

母は幼少のときに父(ぼくの祖父)を亡くし、ぼくの祖母が女でひとつで、母、母の兄、弟(歳の離れた姉が2人いたらしい)を和裁の仕事をしながら育てたという。しかし、どうしてもそれだけでは暮らしはなりたたないので、子どもながらに母はできることをしていたという。

小学校5年くらいのころ、コークスの細かなクズが捨てられているところがあったそうだ。コークスをダンプカーから落として、それを、別の車等へ移していた場所らしい。ちゃんとした大きさのものは無いけれど、細かなクズのようなものをかき集めて持ち帰る、それらをすべて洗って干しておくそうだ。そうすると、翌日には、ちゃんと燃料として使える。そのコークスを使った火で、お湯をわかし、料理をし、お米も炊いたと言っていた。さらには、長屋住まいだったので近所の人たちも順番に使って、みんなが生活の火を得ていたらしい。

ある日、学校から帰ると近所の人が「いつも、ありがとうね」と頭を下げられて困ったそうだ。家に帰って祖母にそのことを告げると「あ、お前が、毎日、コークスを持ってきて、みんなで火を使えるから助かってるんだろ」と言われた。母は、そんなことでお礼を言われてもと思ったそうだ。自分の家族のためにやっているし。それは、究極は自分のためだし。火がついているから、近所の人にも使ってもらってるだけなのに。と、まじめに思っていたらしい。

今の母を見ていても、人に分けることや、困っている人を黙って見ていられないとか、いろいろと驚くことがある。
ぼくたちが「そこまでしなくても、、、」的なことを言うと「私も、昔、困っていたから、、、黙っていられないんだよ」と涙を浮かべて訴えてくることが何度もあった。

そんなときに人の経験は、ほんとうにすごい力を産むんだなとよく思った。

母は肉屋の時代も、今のステーキの店も、または、それよりもっと前も、つねに自分の仕事に誇りをもっている。それも、並大抵の誇りではない。

たとえば今の仕事だったら、日本にも数少なくなってきている昔ながらの和牛のなかの和牛を、若い人に体験してもらいたい。無くなる前に日本人の若い人に食べてもらいたい。そういう一心で、だれでも払える価格にこだわる。

最初は、肉屋としての自信はあっても、飲食の自信が無いから安く売ってるんだろうと思っていた。しかし、64際から15年以上、たったひとりで、生産者直営の肉屋さんに相談しながら、野菜はどこだ、米はだれだ、たまごはどこだ、、、水は、、、と、まぁ、現代人からしたら、そこまでこだわらんでもいいでしょ、と思うようなことを生命がけでやっている。

彼女は、価格を高くするのは人件費だと思っている。ひとりでがんばれば、価格は抑えられると思っているよう。たしかに一面正しいけれど、、、それでは続かないよと思っていた。「いつまでできるかわからない」と言いながら、方針も内容も変えずに15年以上続けているというのは思いの真剣度をバカな息子でも感じざるをえない。脱帽。

子どものころの、たいへんな経験のなかで母の意地っ張りは育てられ、磨きがかけられたんだろうなと思う。こんなエピソードも、ひとつやふたつではない。機会があればここに書こうと思っているけれど、ほんとにどんだけその時代がたいへんなだったのか、母がへんな子どもだったのか。w

ちょっと鉛筆を貸してくれます?

めずらしく母から電話があった。用件は、なんでもアドレス帳にしていたノートが見つからない。
それを探してほしいということではなくて、そこに書かれている卵を頼んでいる養鶏場の電話番号がわからないということで大事件になっているらしい。母にとっては大事件なようだ。

その養鶏場は、あるキリスト教会が経営していて、利益よりも自然というか、鶏が気持ちよく暮らせて、自然に卵を産むという仕組みを14した牧歌的な養鶏場。放し飼いにされている鶏が鶏舎(と言っても、広めの地面にフェンスをしたくらいの鶏の運動場のようなところ)で歩き回って、産みそうになったらその場で産む。翌日産み落とされている卵を農場の人が、ひとつひとつ拾っているというのどかな養鶏が、ずっとされている。母がここから卵を買うようになって40年くらいになるんじゃないかなと思う。

母がつくるハンバーグに、卵を使うらしい。そろそろハンバーグを仕込むのに卵が足りないかもしれないということで、電話をしようとしてノートが無いことに気づいた。そこで、ぼくも含めて、妹、弟、、あらゆるところに電話である。インターネットで調べたけれど教会の電話番号しかない。しかし、この番号が使われていない。教会はあるようなんだけど、、、1〜2日かかって、なんとか連絡がついたらしい。インターネットのおかげである。

安堵して、連絡ができたと語る母の声は明るく。ハンバーグをつくるのに、ほかの卵を使うわけにはいかないということで、次の休みに養鶏場を訪ねて出かけようと思っていたと言う。こういうところが、ぼくが子供のころから頑固というか、正気の沙汰ではないというか、、、母らしい。こだわりにこだわるというか、絶対に曲げない。手に入らないときは、次の納得いくものが出てくるまでハンバーグはお休みになったと思う。

そんなこんなことは昔からたくさんあって、思い出すままに話していたら「私は、これはと思ったら価格に関係なく買う。安物でもいいなと思ったら何点かまとめて買う。」この基準を曲げないという。

この間も、朝の散歩の途中で入ったファミレスで朝ごはんをかねてお茶をしていたらしい。そこに新しい朝刊(母は新聞の名前を言っていた)があって、見ていたら欲しいものが載っていた。買うことにしたけれど、メモも持っていないので、となりのテーブルのお兄さんに「書くもの持ってる?メモしたいことがあるから借りられないかしら?」と言ったらしい。そのお兄さんはペンを貸してくれて、母は持っていた本か、ノートか、レシートかなにかの裏にでも連絡先と商品名などをメモしたらしい。

ペンを返しながら「ごめんなさいね。邪魔して。ありがとう」って言ったら、お兄さんも「いや、こんなの大丈夫ですよ。いつでも言ってくださいよ。笑」と言ってくれた。母には彼の爽やかな人柄が伝わったらしい。それがうれしかったのだろう。

「そうなの?じゃ、また、次の時もお願いね」

と言ったらしい。このどこのどなたかわからない好青年とは違い、そこでぼくが言ったのは「おかあさん、そういうときは新聞の広告をやぶって持って帰ればいいんだよ」と冗談なんだけれどまことしやかに言った。母は、予想通りの返しをした。

「え、冗談じゃないよ。朝の真新しい新聞だよ。そこを破いておいたら、次に見た人が、気になるだろう。夕方のボロボロの新聞ならいざ知らず、そんな新しい新聞を破いて持っていくなんてできないよ。いやだよ。もう、あの店に行けなくなるよ」とマジレス。この人は、自分の掟のベースに世間にどう見られるか、お天道様(太陽)はいつも見ている、ということがあって、80際になっても未だに、マジレスするんdなと思った。冗談、ジョークが大好きで、ユーモアのある人だから、このマジレスが妙に印象に残った電話だった。

母の日常

肉屋の時代から母は早起きだった。
少ない人数で、200名〜400名のお客さんを対面販売で対応していた。
牛肉、豚肉、鶏肉、ハムなどの加工品、食料品、手作りの惣菜が10種類以上。惣菜の準備は、他のスタッフが来てからはじめるので、お昼すぎくらいまでに販売する肉類をスタッフの出勤前までに用意していたらしい。
当時の店は、優良経営食料品小売店等表彰の第1回農林大臣賞を受賞(1977年)するような店だったし、なにより全国の食肉小売業の社長さんが視察に来ていたらしい。らしいというのは、今のように、他社の視察をしたり、受け容れたりする時代ではなかったので、店の外から客数をカウントしたり、お客さんのふりをして店内を観察したり、商品を購入したりしていたらしい。

「らしい」というのは、が、食肉業界に近い世界へ入って行ったときに、全国各地の訪問先で家が肉屋だったと話すと「どこ?」という話になり、「あ、おばさんがきりもりしているスゲー店だ。行ったことあるよ」と言われたのが一人二人ではなかったらしい。

父が描いた理想すぎる路線を、同じ業界の人からも反感を買うような路線を、母の理解の範囲で、ひたすらに続けていた。継続は力なり。何をしていたかといえば、早起きして、仕事をしていただけなのかもしれない。でも、その積み重ねが形になり、母の力になり、そして、その時代に比べたら、今は楽だと言いながら1人で和牛の店をやっていけるのだと思う。

今の店「下町ッ子」でも、肉はある程度の大きさで届き、長年の職人の技を駆使し、ひとかけらも無駄なく肉をわけ、さらに必要な整形をしています。つけあわせの煮物類、味噌汁、ご飯も、すべて自分で選んだ材料を、自分の手で作っています。お客さんには、自分で作ったものだけを出すという頑固さは、身体がしんどそうなときなどは、なぜ、そこまで守るのかと思うことがあります。それを守ってきたから今の自分がいるというか、母の矜持なのでしょうか。

今も、5時か6時ころから仕事をしているようです。そして、一区切りしたらウォーキングをして、カフェでのお気に入りの時間を過ごしてから店を開けます。

食流機構主催の優良経営食料品小売店等表彰の第1回農林大臣賞
※弟は母に近い仕事をしていて燻製の職人。無添加と自然の香辛料などにこだわったものづくりをつづけているぐるめくにひろの代表。

80歳になっても

久しぶりに母と会いました。
歩けなくなったらおしまいだからと、今も、なるべく歩くようにしているそうです。
携帯電話が万歩計になっていて、多いときは1日に2万歩歩くそうです。

「少なくても7000歩は歩いてるわ」

健康は足腰からなのかもしれませんが、この歩こうとする気持ちもすごいです。
私鉄沿線、1〜2駅となりの街まで歩いて、カフェで休憩をして、買い出しをしてもどるのが日課になっているそうです。
母は、長年、糖尿病を患っていましたが、今では薬がいらないくらいの数値に落ち着いていて、主治医の先生も驚いているというこでした。

母が、歩いているうちは元気なんだろうなと感じました。
さて、ばいくは、1日、何歩歩いているんだろうか。^^;

下町ッ子というステーキ茶屋

このページへいらしたということは、下町ッ子というステーキ茶屋をご存知ですか。

ご存知でない方もいらっしゃるかもしれないので、少しだけ。
「下町ッ子」というのは、席数にしたら10席あるかないかの小さなステーキの店です。

ステーキ茶屋 下町ッ子

ここの主は、ぼくの母です。
戦争を体験した母は、数奇な運命のもと10代から家族のために働きながら、気づいたら学校へも行かず、ひたすら働いていたそうです。母の学校は社会だったんだなぁと思うエピソードを、たくさん聞かされました。とにかくおしゃべり好きというか、話しだしたら止まりません。下町ッ子へいらしたことがある方はご存知と思います。

いろいろな仕事をしながら、縁あって「松金」という肉屋に就職します。それから、肉一筋に40年以上の間、女だてらに肉屋をやっていました。「女だてら」なんて言うと、今は、いけないのかなぁ。でも、母が生きてきた時代では「女だてらに」と言われていたと思います。

松金は、肉の品質に生命をかけていたような会社で、いつもいつも、早すぎる改革をしていました。練馬区の片隅にある小さな肉屋でしたが、いつもいつも、業界では大騒ぎになることを続けていました。

そんな肉屋なんで、和牛へのこだわりは、とても強いものがありました。父は「おいしい肉」という本を自費出版するくらい、この肉屋に入れ込んでいて、そこのトップの職人のひとりだったのが母です。母は和牛一筋40年のころ、肉屋をやめて、ステーキ屋を始めました。たったひとりで。ひとりでやれる仕事がしたかったそうです。

「この歳だから、何年できるかわからないけど、やれるうちはやりますよ。10年もできるかしら、、、」

下町ッ子へいらっしゃる方が、「お母さん、すごいおいしい。こんなステーキ初めて食べたよ。元気でいて、ずっとやっててね」と言われると、いつも、そんなふうに言っていました。その店も10年はとっくに越えて、18年になります。
母は、今、82歳だそうです。今も、まだ、下町っ子をやっています。

店での大ボラ、年齢による記憶違いなんかもあるのが不安なのと、ま、母の人生を、少しわかってくれた方に、このあと暖かく見守っていただけたらと思って、店や、店の案内では語り尽くせないことを、言ってしまうことにしました。
不敵な掲載になると思いますが、気が向いたときに読んで、笑っていただければ幸いです。

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