インターネットを使えない母

下町ッ子をインターネット上の情報で知ってくださった方が多い。
テレビでいらしている方のほうが数は多いと思うけれど、インターネット経由の方は、くりかえしご来店いただくようになった方が多いと思う。

そういう方々から「お母さんの店は、すごいね。ネットの評判がいいよね。前から、一度、来たかったんだ」と言われることがよくあるらしい。母は、そういうとき、「そうなんですか。ありがとうございます。私は、そういうのわからなくて見たことがないんですよ」と言うらしい。

あまりに多くて、どんなことが載っているのか印刷してほしいと頼まれたことがある。印刷してみると、けっこうなボリュームだった。書いてあることを、見てみると、それぞれ方が、思った通りのことを書いてくださっているのがわかる文章が多い。
ネットの情報も、肉声が集まると、なにか別の価値を生み出してくれているんだなと思ったことがある。

今でも、母は、インターネットを知らない。画面を通して見たことは無いんじゃないかな。
でも、今のWEBサイトは15年以上前につくったものなので、スマホやタブレットでも見てもらいやすいスタイルにリニューアルした。内容は、そのまま移し替えただけだけど、おいおい、なにか仕掛けてみたい。本人の発信ができないからな。笑
そこで、このブログを始めたというふうに言いたいけれど、実は、母と話していると残しておきたくなる話が多いので始めました。本人からは、もっと濃い熱い話が聞けます。


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下町ッ子のWEBサイト

ちょっと鉛筆を貸してくれます?

めずらしく母から電話があった。用件は、なんでもアドレス帳にしていたノートが見つからない。
それを探してほしいということではなくて、そこに書かれている卵を頼んでいる養鶏場の電話番号がわからないということで大事件になっているらしい。母にとっては大事件なようだ。

その養鶏場は、あるキリスト教会が経営していて、利益よりも自然というか、鶏が気持ちよく暮らせて、自然に卵を産むという仕組みを14した牧歌的な養鶏場。放し飼いにされている鶏が鶏舎(と言っても、広めの地面にフェンスをしたくらいの鶏の運動場のようなところ)で歩き回って、産みそうになったらその場で産む。翌日産み落とされている卵を農場の人が、ひとつひとつ拾っているというのどかな養鶏が、ずっとされている。母がここから卵を買うようになって40年くらいになるんじゃないかなと思う。

母がつくるハンバーグに、卵を使うらしい。そろそろハンバーグを仕込むのに卵が足りないかもしれないということで、電話をしようとしてノートが無いことに気づいた。そこで、ぼくも含めて、妹、弟、、あらゆるところに電話である。インターネットで調べたけれど教会の電話番号しかない。しかし、この番号が使われていない。教会はあるようなんだけど、、、1〜2日かかって、なんとか連絡がついたらしい。インターネットのおかげである。

安堵して、連絡ができたと語る母の声は明るく。ハンバーグをつくるのに、ほかの卵を使うわけにはいかないということで、次の休みに養鶏場を訪ねて出かけようと思っていたと言う。こういうところが、ぼくが子供のころから頑固というか、正気の沙汰ではないというか、、、母らしい。こだわりにこだわるというか、絶対に曲げない。手に入らないときは、次の納得いくものが出てくるまでハンバーグはお休みになったと思う。

そんなこんなことは昔からたくさんあって、思い出すままに話していたら「私は、これはと思ったら価格に関係なく買う。安物でもいいなと思ったら何点かまとめて買う。」この基準を曲げないという。

この間も、朝の散歩の途中で入ったファミレスで朝ごはんをかねてお茶をしていたらしい。そこに新しい朝刊(母は新聞の名前を言っていた)があって、見ていたら欲しいものが載っていた。買うことにしたけれど、メモも持っていないので、となりのテーブルのお兄さんに「書くもの持ってる?メモしたいことがあるから借りられないかしら?」と言ったらしい。そのお兄さんはペンを貸してくれて、母は持っていた本か、ノートか、レシートかなにかの裏にでも連絡先と商品名などをメモしたらしい。

ペンを返しながら「ごめんなさいね。邪魔して。ありがとう」って言ったら、お兄さんも「いや、こんなの大丈夫ですよ。いつでも言ってくださいよ。笑」と言ってくれた。母には彼の爽やかな人柄が伝わったらしい。それがうれしかったのだろう。

「そうなの?じゃ、また、次の時もお願いね」

と言ったらしい。このどこのどなたかわからない好青年とは違い、そこでぼくが言ったのは「おかあさん、そういうときは新聞の広告をやぶって持って帰ればいいんだよ」と冗談なんだけれどまことしやかに言った。母は、予想通りの返しをした。

「え、冗談じゃないよ。朝の真新しい新聞だよ。そこを破いておいたら、次に見た人が、気になるだろう。夕方のボロボロの新聞ならいざ知らず、そんな新しい新聞を破いて持っていくなんてできないよ。いやだよ。もう、あの店に行けなくなるよ」とマジレス。この人は、自分の掟のベースに世間にどう見られるか、お天道様(太陽)はいつも見ている、ということがあって、80際になっても未だに、マジレスするんdなと思った。冗談、ジョークが大好きで、ユーモアのある人だから、このマジレスが妙に印象に残った電話だった。

母の日常

肉屋の時代から母は早起きだった。
少ない人数で、200名〜400名のお客さんを対面販売で対応していた。
牛肉、豚肉、鶏肉、ハムなどの加工品、食料品、手作りの惣菜が10種類以上。惣菜の準備は、他のスタッフが来てからはじめるので、お昼すぎくらいまでに販売する肉類をスタッフの出勤前までに用意していたらしい。
当時の店は、優良経営食料品小売店等表彰の第1回農林大臣賞を受賞(1977年)するような店だったし、なにより全国の食肉小売業の社長さんが視察に来ていたらしい。らしいというのは、今のように、他社の視察をしたり、受け容れたりする時代ではなかったので、店の外から客数をカウントしたり、お客さんのふりをして店内を観察したり、商品を購入したりしていたらしい。

「らしい」というのは、が、食肉業界に近い世界へ入って行ったときに、全国各地の訪問先で家が肉屋だったと話すと「どこ?」という話になり、「あ、おばさんがきりもりしているスゲー店だ。行ったことあるよ」と言われたのが一人二人ではなかったらしい。

父が描いた理想すぎる路線を、同じ業界の人からも反感を買うような路線を、母の理解の範囲で、ひたすらに続けていた。継続は力なり。何をしていたかといえば、早起きして、仕事をしていただけなのかもしれない。でも、その積み重ねが形になり、母の力になり、そして、その時代に比べたら、今は楽だと言いながら1人で和牛の店をやっていけるのだと思う。

今の店「下町ッ子」でも、肉はある程度の大きさで届き、長年の職人の技を駆使し、ひとかけらも無駄なく肉をわけ、さらに必要な整形をしています。つけあわせの煮物類、味噌汁、ご飯も、すべて自分で選んだ材料を、自分の手で作っています。お客さんには、自分で作ったものだけを出すという頑固さは、身体がしんどそうなときなどは、なぜ、そこまで守るのかと思うことがあります。それを守ってきたから今の自分がいるというか、母の矜持なのでしょうか。

今も、5時か6時ころから仕事をしているようです。そして、一区切りしたらウォーキングをして、カフェでのお気に入りの時間を過ごしてから店を開けます。

食流機構主催の優良経営食料品小売店等表彰の第1回農林大臣賞
※弟は母に近い仕事をしていて燻製の職人。無添加と自然の香辛料などにこだわったものづくりをつづけているぐるめくにひろの代表。

80歳になっても

久しぶりに母と会いました。
歩けなくなったらおしまいだからと、今も、なるべく歩くようにしているそうです。
携帯電話が万歩計になっていて、多いときは1日に2万歩歩くそうです。

「少なくても7000歩は歩いてるわ」

健康は足腰からなのかもしれませんが、この歩こうとする気持ちもすごいです。
私鉄沿線、1〜2駅となりの街まで歩いて、カフェで休憩をして、買い出しをしてもどるのが日課になっているそうです。
母は、長年、糖尿病を患っていましたが、今では薬がいらないくらいの数値に落ち着いていて、主治医の先生も驚いているというこでした。

母が、歩いているうちは元気なんだろうなと感じました。
さて、ばいくは、1日、何歩歩いているんだろうか。^^;